2026盆、あふれた水の記録
- 2 日前
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更新日:10 時間前
8月13日の千葉県豪雨の被害に遭われたみなさまにお見舞い申し上げます。
当店および自分の住まい周辺は道路の冠水がありましたが建物は浸水することはなく、おかげさまで通常通りの生活と営業ができています。
あの日、雨が降ったりやんだりの予報がされていましたがあのレベルになるとは全く予報されてなく、晴天の霹靂。
わたしはスマホの画面をスクロールしても常に表示される位置に天気予報のアプリを複数入れており、暇さえあれば見ている人間ですが、あの日は雨が強く降り出してから急に予測雨量が爆上がりで雨量も時間帯も雨雲レーダー(これはのちにずっと真っ赤になる)も見るたび変化し悪化する状態でした。
20時前、意を決し土砂降りの中を自転車で帰宅。
店から500mほど東に進んだところにある貯水池は水が溢れており、その周辺道路は水が膝丈まで上がってました。
わずか2時間足らずで貯水池が満水になるなんて明らかな異常事態なのに(直撃台風の時ですらあまり水位が上がらなかった)、でもまあ、いけるかな~って思っちゃうものですね。
ここ50mくらい突っ切れればたぶん大丈夫だし、と毎日通る道だからか謎に楽観してしまう。
しかし、いろんなものが流れてくるし水流に足取られるし転んだらどうなる、、?まったく地面が見えないけどマンホールの蓋が空いている可能性は、、?
一瞬、パン屋店主帰宅中水死の文字がよぎりハッとしました。
おおお、正常性バイアス働いてた!
あぶないあぶない!
ネガティブでよかった~!
と、自転車を降りて引き返し、とにかく坂の上へ上へ、冠水箇所を回避しながら無事帰宅。
帰宅し気象庁のライブ会見などを見てからこれは線状降水帯であると知りました。
そんな、、発生してから言われても、、、と多くの人が呆然としたのではないでしょうか。
自然に対して人間は無力。
この異常な気象は人間の行いによる結果でもあるのだが。
線状降水帯はどこでも突然起こりうるのだと身をもって体験しました。
そして線状降水帯は台風より対策する時間が無さ過ぎてヤバイ!
急な豪雨の際は、だめだめ!過信・盲信・正常性バイアス!なによりもまず命!ということでみなさまもどうぞお気を付けください。
今回は大家さんやご近所のみなさんの助けもありまして、流されたスロープや溜まった泥の処理を素早く済ませることができ、店は無事でいつも通り営業してますよというご報告でした。
新川周辺の田んぼ。

一部倒れてましたが、大半は何事もなかったかのように稲穂が風にそよいでいました。
新川もあれから5日経っても全体的にびちゃあっとしっとりとしてますがほぼいつも通りでした。

平穏の尊さよ。
雑記
8月はかつての戦争について思う月。
2冊の本を読みました。

豊永浩平著書「月ぬ走いや、馬ぬ走い」と「はくしむるち」。
どちらも沖縄を舞台に過去(戦中)の若者と現在を生きる若者を同時並行で描いた小説です。
文のリズムがヒップホップ的(実際に登場人物がラップをする箇所もある)で2000年以降生まれの息吹を感じました。
太田ステファニー歓人著書「みどりいせき」も文のリズムが完全にヒップホップ的で革新的作品なのですが、豊永さんは10歳ほど年下だからか自然にヒップホップが染み付いている感じ。
今の20代って学生時に体育でヒップホップダンスを踊ってきた世代ですよね。
アイドルも曲にラップをいれたり、ヒップホップがR&Bやジャズ、ソウル、ファンク、などと融合してもはやジャンルレスになり、思春期にそれらを吸収した人に自然と備わったリズム感なのかもと勝手に思ったりし。
沖縄が戦時も現在も状況は違えど構図的には変わらないものを抱え続けていて、生と死、性と暴力、怒りと葛藤、変えられぬ出自とアイデンティティ、理不尽な社会構造、沖縄の閉塞感と解放感、その中で刹那的に生きる若者たちの生臭くひりひりした眩しさにくらくらしながら読み進めました。
関東育ちのわたしは戦時と戦後は完全に区切られた世界だとがち捉えがちだけど、沖縄ではずっと地続きで繋がっているということを、2作どちらにも登場する現代の若者の葛藤を通じて感じました。
線状降水帯をニュースで見て知ってどんなに心を痛めていても、どこまでも他人事でしかなかったのだと、実際に体験して初めてやっと自分事になったのは否めない。
同じようにいくら本を読んで追体験したとしても、実際の体験とは雲泥の差がある。
とはいえ、ひとりの人間がすべての物事を体験できるわけがなく、戦争や災害のように誰ひとりとして体験すべきではないがあらゆる誰もが実態を深く知る必要がある物事をどうやったら全員が自分事にできるか。
どうしたら語り継ぎを無意味にしないか。
それはたくさんの話を見て聞いて読んで想像力を養うことだと思います。
ただでさえSNSの普及によって人々の思考が急激に短絡的になってしまったというのに、AIの普及によってさらに無思考へと一層悪化しているのではと感じる現在。
ジョージ・オーウェル著「1984」でニュースピークの辞書を編纂しているサイムの言葉を思い出します。
彼はニュースピークは最終的に6語あれば十分だと言い、その目的は総じて表現する言葉を無くし思考と意識の範囲を縮小することにあり、最終的に思想を表現する言葉がなくなれば文学も破壊され、現在理解している思想は存在しえなくなるのだと。
それは語り継ぐことの無効化であり過去との断絶。
つまり「正統とは、考えないことを―考える必要がないという意味だ、正統とは、無意識のことなんだよ」(角川文庫版1984より引用)だそうだ。おそろしや。
今のところこの国では政治の判断によって言葉が減らされているわけではありませんが、テクノロジーの発達(政治が無関係ではない)によって人々の思考が縮小され続けている。
現状を統治する側は勝手に馬鹿が増えてしめしめだぜ~いとでも思ってるんだろうか。
かつてわたしが働いていたケーキ屋の店主は学校出たての若い子だけを採用しており、その目的はまだものをよく知らない人間の方が疑わず素直に従うから扱いやすく染めやすいからだと。
わ〜戦慄しますね〜。
八千代市中央図書館内のギャラリーでやっていた平和展を観ました(18日で終わっちゃった)。
戦時の兵士や市民の生々しく痛々しい悲惨な写真が多く展示されていました。
たった一瞬だけを切り取った目に映るものが、言葉以上に多くのことを語っている。
もしも言葉がなくなったとしても、これが語り継がれ自分事へ転換する一縷の望み、、そう願わざる得ないのでした(それも消されたら終わりなんだけど)。
未来を憂う戦後81年の夏。
〆はぴったりなこの曲で。



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