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ネーブルオレンジママレードと3.11を思う

  • bongout7
  • 2024年3月11日
  • 読了時間: 3分

更新日:2024年3月12日


春は黄色

たんぽぽもスギ花粉も黄色


ジャムも黄色


ひそかにネーブルオレンジママレードが出来ておりました。

愛知県からやってきたまるまるとしたかわいらしい果実。


ナイフを入れればじょわーっとあふれ出す果汁。

このまま食べるのが一番。絶対正解。

ですが、心を鬼にしてママレードに。


皮を刻んでゆでこぼして。

果肉と果汁と合わせて煮詰めて。

厨房がオレンジの香りで満ち満ちていきます。


オレンジを丸ごとギュッと詰め込んだようなママレードです。


こんがりきつね色に焼いた食パンに、バターを塗ってママレードをたっぷりと。

新生活のスタートにふさわしいフレッシュな朝となる事でしょう。

新生活ではない延長線上のあなたもぜひ。





雑記


月日が廻り廻っては何度でも戻ってくる3月11日。


あの日あの時どこでどう過ごして何を思ったのか。

あれから長野で、大阪で、熊本で、北海道で、能登で、大きな地震がある度に、お客様や知り合いからぽつぽつとお話してくれることがあります。

それを聞く度に、被災をした人は言わずもがな、被災していない人も、あの日を生きていた多くの人にとってエポックメイキングな出来事であったことが伝わってくるのです。


最近読んだこちら。

2020年3月コロナ禍で始まり、コロナ禍が続く中ロシアによるウクライナ侵攻が始まった2022年2月までの2年間を、違う土地で違う境遇で暮らす3人の視点で描かれたお話です。


主要人物が30代前半から40代後半なのでその枠内の私としては、描かれている事象が自分の記憶とリンクしてその時々の空気や質感を生々しいほど感じることができました。


この世代のエポックメイキングとなるのは1995年阪神淡路大震災、2011年東日本大震災で、直接被災を経験していない人にもこの2つの震災という釘がそれぞれの角度で心に打ちつけられているのだなという事がこのお話を読んでいて思う事でした。


わたしは阪神淡路大震災の起きた1995年は中学生で、その3年後に関西に住むことになるのです。

そして神戸市灘区の辺りを電車で通過する時に車窓からの景色にところどころ潰れたままの家があることにひどく驚いたのでした。

その頃10代の私の3年間は今と比べたらとても長く感じられるものだったし、関東ではオウム真理教地下鉄サリン事件とそれに付随する事件によって震災報道がかき消されてしまっていたのもあり、復興は済んだものと思い込んでいたのもあり、3年も経ったのに震災時そのままの家があるなんて!?と。


あの頃は何も知らない罪深く無邪気で甘々なこどもだったのだとしっかりと思い知るのはその13年後。

東日本大震災の後に岩手県大槌町にボランティアに行った時でした。


津波でよくわからないいろんなものに埋もれたドロドロになったアパート数棟を40人ほどで泥かきをして片付けるのですが、何時間やっても景色が変わらないのです。

2日やって何とかまあまあ片付いたけどドロドロで。

そのアパートの周りの建物もドロドロに泥に埋もれたままで。

これは、、数年どころか数十年、、果てしなく長い時間が必要だ、、と無力感を覚えたのでした。


そして1998年阪急電車の車窓から見たあの灘区の3年も被災したままだった家の事を思ったのでした。

そして今は能登のまだ避難所で暮らさざる得ない人たちの事を。


小説というものはフィクションでありながら極めてノンフィクションというか、読んでいる人の記憶や心と混ぜ合わさりながら立ち上がってくる確かなものがあるなあと(確かと言いながらそれは言い表せない無形な何か)。

「続きと始まり」色々な記憶と思いが去来するそんな一冊でした。



〆はしっとりと




 
 
 

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